くしゃりと紅い花びらが彼の手から滑り落ちる。
 握りつぶされた薔薇は見るも無残な姿になっており、まるで自分の苛立ちを如実に表しているようにも見えた。
 向かい側に座る男も同様に、苛立ちを感じているのだろう。
 木製のテーブルを指で何度も叩き、とんとんという一定の音が小さな部屋に響く。
「うるさいですよ、さっきから。そんなにテーブルを叩いて壊す気ですか? グヴェン」
「そういうシムメール、お前こそどうなんだよ。折角の綺麗なお花が無残だぞ」
「放っておいて下さい。貴方もこの苛立ちがわかるのでしょう?」
 シムメールは薔薇の花から手を離すと、癖で自分の頬に当てようと持っていくが手のひらについた花粉を見るなり、座っているソファーに手のひらをこすりつける。
「わかるともよ、使えないコマをいくら使ったって意味がねぇってことぐらいな。まぁ俺達自身があいつらの力を侮っていたせいもあるけどな」
 テーブルにある水鏡で、何度か彼ら……ジョニー達を見てきたが一向に二人が望む結果にならない。
 バース、ロア、ケイに再会した時に戦った魔物、大聖堂で神と共闘した魔物、すべてが彼らの差し金であった。
「私は頭脳派なのですよ、グヴェンのように肉体派ではないのでね」
「その頭脳すらも空回っているようだぜ? シムメール様?」
 わざとらしくグヴェンは、シムメールに「様」をつけて呼ぶ。ただのからかいであった。
「お黙りなさい!」
 最初、様付けに怒ったのだとグヴェンは思った。しかしそれだけにしてはシムメールの様子があまりにもおかしい。
 シムメールの綺麗に整った顔が怒りで非常に歪んでおり、これが神の補佐官として皆から慕われていた男の姿とは思えないほどである。
 グヴェンの中でシムメールは「張り付いた笑顔を持った男」というイメージを持っていたが、そのイメージはどうやら多少なりは当たっていたようだ。
 シムメールの本来の顔を見て、彼は口笛を小さく吹く。
「シムメール、少しは落ち着けって。折角の顔が台無しだぞ?」
 グヴェンのからかい調に、シムメールは更に噛み付こうとしたが頬の筋肉がいつもよりも強張っていることを感じると、はっとしたように普段皆の前でする苦笑した表情を見せる。
「私としたことが……真実であることに変わりはありませんからね。しかし私達の手元に残るコマといえばもうそうは残っていませんよ?」
「おいおい、俺達のこと忘れてねぇか? いい加減、雑魚達に任せるのにイラつきを感じてよぉ、俺は暴れたくて仕方ねぇんだよ。わかるか? この気持ちが」
 そう語るグヴェンの目は怪しく光っており、血に飢えた獣と内心シムメールは毒づく。
「血の性ですか? これだから魔族は恐ろしいですね、よっぽど直接手を下すのがお好きなようで」
「お前の場合、手は汚さず……だろう? 神の補佐官あろうものが腹黒い限りじゃねぇか」
「補佐? 何、馬鹿なことを。私はこれから神になるのですよ」
 シムメールは微笑みを浮かべつつ、ワインを飲み干すと、そのワインが注がれていたグラスをカーペットに叩きつける。
「貴方だって地位を得たいがために消したのでしょう? 貴方は魔王に、私は神にそう最初に申したではありませんか」
「あぁ、そうだったな……。本当、あれは馬鹿な奴だ。何も知らず俺を親友として信じていたのだからな」
 最後の部分をグヴェンは吐き捨てるように言い放つと、立ち上がり
「グヴェン、どこへ行くのです?」
「暫く暢気に座って、飴ばっか食ってたからよ。少し運動してこようと思ってな、体が鈍っていけねぇ」
「それはいいですが、血生臭いのをここに持ち込まないで下さいね。血は奴らの血だけで十分です」
「いいねぇ、その目。魔に魅せられたみたいでゾクゾクするぜ? シムメール」
 この馬鹿者がと小さくシムメールが言い返した。


 ケイは心の心が渦によって黒く染まるのを感じる。
 今まで穏やかだと思っていた流れが、急に黒く染まるのを肌で感じていた。
 この感情を言葉で表すには足らず、でも確かに自分が時折黒くなっているのがわかる。
「……醜い感情よ……」
 ケイは稽古のため、一人外で出ていたがその稽古もまったく実に入らない。
 考えることは自分の中に蠢く黒い渦であり、それが脳裏から離れない。
「わらわは何かの病気か? いつの間に病に……」
 それは渓谷へ落ちたときであろうか。その時、一番黒い渦を感じていた。
 バースとジョニーが二人で行動をしており、無事二人は帰ってきたが……
「わからぬ、わらわには……。何故、ここまで黒い渦が蠢くのだ……」
 膝を抱え込み、そっとまぶたを閉じてみるが心の闇が晴れることは無い。
「……少し精神統一でもしないと駄目そうだな」
 立ち上がり、自分が座れる場を探す。暫く精神統一をすればきっと心の闇も多少なりは晴れるだろうと思っていたからだ。
 適度な場に座り、目を瞑る。
 普段ならすぐに集中できるが、今日に限って目を何度瞑っても心の静寂は訪れてはくれない。
 理由のわからない感情がケイの中で動き、それが彼女を苦しめていた。
「何もできぬな……」
 このまま座っていても意味もないだろうと、ケイは大人しく目を開く。一瞬眩しさに目を細めたがすぐに慣れ、隣に置いていた鎌を掴む。
 宿に戻ったところで恐らくこの感情を解消できないと思いつつも、今は戻るしか道が無かった。
 一層のこと、誰かに相談するべきかもしれないと彼女の中で案がよぎる。
 だが誰に相談するかと考えた時、人は限られており消去法でどんどん人が削れていく。
「……仕方ない、一度聞いてもらうことにしよう。きっとわらわよりもわかっているだろうからな」
 頼っていいのかと悩んだが、このまま何もせず不調和を奏でるわけにはいかないと。
 ふっとケイの周りが暗くなる。
 ケイは横に飛び、手に持つ鎌を構えなおすとほぼ反射的に振るう。
 いくら先制攻撃をされても、安易にやられるほどケイは鈍ってはいなかった。
 確かな手ごたえを感じる。鎌にはケイを襲った魔物の血がついており腕を切り落とされた魔物の咆哮と血の香りが包みこむ。
 再び、ケイは連続で鎌を振るう。左右に血が飛び散り、勝負はついたなとケイは魔物から離れようと半歩下がった時であった。
 自分の足元が何故かぐらつく。確かめるように足元を見ると、踵が地面の端を踏んでいるところだった。戦いにおいて、地形を見ながら戦うことは当然のことであったというのにケイは、初めて自分が今どのような場に立っているのかを理解した。
 体が後ろにゆっくりと倒れこみ、このまま落ちるのかとケイは思った。崖というほどの急斜面ではなく、それは小さい洞穴に近い。これがもしアルバートくらい体格がしっかりした男なら、落ちる途中で突っ掛かるほどの幅であろう。
 しかしケイの小さい体だと、見事すっぽりとはまるほどの大きさであった。
 倒された魔物がどうなったのかケイにはわからなかった。
 もうすでにケイの視界に死んだ魔物は見えず、見えるのは雲に隠れそうになった太陽だけであった。


 ケイが落ちた洞穴はほの暗く、微かに差し込む光を見ると完全に閉じ込められたというわけではないようだ。

 これで窒息死は避けられるが、このままいれば生命の危機におかされていることに間違いはない。
 暗く狭いその場所で、ケイは自分の腕を掴む。腕が震え、その震えに打ち負かすように強く握り締めているのだが、腕に痛みを感じなければ震えが止まることもない。
 ただ暗く、狭いこの場所が怖いとケイは思った。
 自分の髪色、服の色がすべて闇に溶けていきそうで、このまま闇と共に消えるような感覚。
 闇はまるで、自分の心でもあると同時に思っていた。
 黒く渦巻く闇が自分を飲みこむと、つい先ほど考えてしまっていたせいか一人闇の中にいると妙な錯覚を起こしていた。
 一体何をどう間違えたのかケイにはわからない。
 誰か自分のことを気付いてくれるだろうかという淡い期待を持つ気にはなれなかった。それだけ闇が大きく自分の心を支配していた。
 不安――ケイの中にはその単語しかなく、もう目を開けているのも辛いと再びまぶたを閉ざした。


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