そこは酒と安い香水の香りが充満していた。このやや寂れた酒場には男達がたむろしており、恐らく夜の場所がここしかないのだろう。汚いながら盛況であった。
 ロアはその一番端の席で、一人酒を飲んでいた。なるべく目立たないようにと彼は心がけているのだが、彼の雰囲気がこの酒場から激しく浮いていた。
「……次からは場所を変えるべきだったかな」
 荒事は慣れているが、今は極力おとなしくしたかった。アルバート達に知られぬように外に出たのが無意味になってしまう。
「お待たせしました……この場所は間違えたかもしれませんね」
 男は神経質なのか、ハンカチを口元に当てていた。その男もロア並みにこの場所から浮いていた。フードをすっぽりと被っており、ただの不審者にしか見えない。
「フード、取ったらいかがですか」
「まさか。髪に煙草の匂いがつくじゃないですか。私にはこんな安い場所は合わないんですよ。成り上がりとは違うんです」
 今回は運が悪い。そうロアは心の中で思う。人を遣わすと連絡があったのみで実際に顔をあわすのは今日が初めてである。
「今は場所について言ってる暇はありませんね。それで、貴方があげた報告書に間違いはないのですね」
「えぇ、彼は私達と共に行動をしています」
 それは非常に予想外だと付け加える。
 ロアは自分の仕事について、仲間達には曖昧に誤魔化していた。
 というのも他者に打ち明けることを禁じられていた。最初、彼は自分を助けてくれた院長への恩を返したいと仕事の大大小関わらず、真剣に取り組んでいた。
 そんな彼の元へ舞い込んだのは今の仕事である。仕事内容はまさに機密事項で、ロアの立場で受けるには不相応である。しかし彼に向いたわけは、一言でいうなら、戦える力を持った人でなければならないということであろう。

「トラディアス、まさか妖精王の御子息が記憶を失うとは。わかっていますね、目的を……」
「彼を守り、妖精王の元へ連れていく。しかし今の情勢で彼を連れていくのは危険では」
「だから君がいるのだろう。詳しくは知らんが、剣の腕前はいいと人づてで聞いたことがある。だからなんとしてでも守りきりなさい」
「しかし話によると彼は家が嫌で何度も脱走をしたとか。いくら記憶を失っていてもそう素直に言うことを聞いてくれるか」
 それは数時間前、ロアが行き先の提案をした時だった。アルバート達は妖精王が住まう城の場所を知らず、ロアはさりげなくそちらのほうへ話を向けた時だった。
 だがトラがダメだとロアの案に異議を唱えたのだ。理由を聞いてみてもどこか話が噛み合わず、しかし彼の何かが激しくそこを否定しているように思えた。もちろん、アルバート達はなぜそこまで嫌がるのか理解できず、首を傾げていた。
「変に仲間に悟られると困るので上手くごまかしましたけど、あの様子ではいきなり連れていくのは無理ですよ。遠巻きに連れてでもしないと、とにかく時間が足りません」
「だからこそ、あの香で無理やり記憶を消せばよかったでしょう。それを事故でなくすとは、あれは替えがないんですよ」
 ロアは報告書の中で、例の香を交戦中になくしたと書いたのだ。あの香はもしもの時と支給されたもので、決して私用で使えるものではない。だがロアはあの時、仕事よりバースの精神を選んだ。
 その時、心の隅に仕事より自分を選んだことに罪悪感を覚えたが、気持ちを抑えることができなかった。
「なくなったものをこれ以上嘆いても仕方ありません。いいですね、何としてでも王子を守り通して下さい。臨機応変に動くこと、期待していますよ」
 それは失敗するなと言われているのと同じだ。ロアは自分に課せられた使命の重さを感じつつ、ゆっくり頷いた。


 新しくトラを加え、四人はゆっくり道中を楽しんでいた。
「でもアルさんに出会えてよかったぜィ。なんか、すげーアルさんとは気は合いそうだし」
 トラとアルバートは妙にウマがあうらしく、短期間であるのにも関わらず、二人は親友のように仲がよかった。
「馬鹿は馬鹿同士、気が合うみたいだね」
「ちょ、酷くね。別に馬鹿じゃねぇーもん。なぁアルさん」
「なっ、トラ。俺達、阿吽の呼吸っていうかさ」
 二人は肩を組み、歌を口ずさみながら橋に足を踏み入れていた。
「ねぇロア、一つ聞きたいことあるんだけど」
「ん、何か気になることでもあったかい」
 実はと、バースが口を開こうとした時だった。
 トラとアルバートの先、橋を繋ぐロープに向かって斧が降りおろされていた。
 相手は見えない。だが確実にロープは切られたのだ。 なぜ切られたのか、三人には理解できなかった。ただロアだけがこの意味を理解していた。

 これは間違いなくトラを狙っている、ロアは考えるより先に前に飛び出していたが、彼ら目掛けて飛んでくる矢を払い落とすことがやっとで、トラとアルバートを救うまでには至らなかった。
 二人は勢いよく、川に落ちる。
 川の流れは早く、二人の姿を肉眼で確認することができない。

 トラを狙った人間は足早に姿を消しており、はっきり誰であるとは分からなかったが目的なら容易に理解できる。
 ロアは流れる川を眺めることしかできなかった。今、飛び込んだところで二人を救出できるということでもなく、落ちた橋から単独で飛び込むのも上策とも言えない。
 ただ自分の愚かさを彼は責めていた。あの時、報告書に香は交戦中に紛失したと書いたときから――ずっと。
 ――自分の目的を忘れたわけではない、一体私は何をしている。私のするべきことはトラディアス皇子を守ること……だと言うのにうつつを抜かしてこんな失態を。
「ロア……あいつらなら平気だよ、アルバートもいるし。オレ、あの二人ならこれくらいでどうにかなるとは思えない」
 バースは落胆するロアを励まそうと、彼女なりに気を遣った声で話しかけてきた。バースは二人が橋から落ちたことだと思っているが、ロアの心中はそこに重点は置かれていない。確かに仲間を目の前で落とされたことも絡んではくるが、一番の原因は自分の精神的弱さであった。
 一度は捨てた思いをぶり返したがために、満足に仕事をこなせない自分に嫌気がさしていた。
「とにかく下流に向かって歩いていこう、このまま立ち尽くすよりかはマシだろ」
 バースの励ましに答えることができず、ロアは静かに歩き出した。
 彼女は彼の後に続き、ロアが何かしら発言するのを待っていたが、待てど、彼は何も言わずバースもどう話を切り出せばいいのかわからないまま静かに歩くしかなかった。
 二人はただ黙々と下流に向かっている。バースは何も発しようとしないロアと落ちた二人を心配し、ロアは自分の不甲斐なさに何も言えないと思いながら。
「ねぇロア、オレ達が信じなきゃ駄目だろ。あの馬鹿二人なら何があっても平気だってさ、ロアは変に自分を責めすぎだよ」
 まだ彼女は勘違いをしていたが、最後の『自分を責めすぎ』という言葉が彼の中で大きく引っ掛かった。
 自分は確かに過ぎるというほど自分を責めていた。それだけ自分に課せられた使命を行えてないと痛感していたからである。もしあと少し、警戒心があったのならば橋を渡る際、さりげなくトラの近くにいられたのではないだろうか。
 それをすっかり忘れ、いつも通りにしていたのが悪かった。
「ロアがそこまで落ち込んだらオレ、どうしたらいいかわからないよ」
 バースも同じように不安だった。ただ彼女の場合は、トラの命が狙われていたとは知らず近くの山賊にでもやられたぐらいにしか思ってない。
 加え、彼女はアルバートを強く心配する必要もあった。口では素っ気ないが、心の中では心配していた。 本来なら狼狽えそうになる自分をロアがさりげなく支えていたが、今のロアは彼女ほどの余裕がなかった。だから彼女にとって初めて立つ位置に、どうロアを励ましたらいいのか具体的にわからず、必死だったのだ。
「すまない、いつもはここまではないんだが」
「それは別にいいよ。むしろロアはいつも励ましてくれる側だったし」
 バースと若干、思いがずれていることをロアは内心、苦笑しつつ気を使ってくれた彼女の為にも早く考えを切り替えなければと、大きく息を吸い込んだ。
「……今は少なくとも二人を見つけるか、連絡手段を取れることから始めようか」
「多分、下流に流されてるだろうからその付近にある町ならいるかもしれないってことだろうから」
「そうだね、私もあの二人なら何があっても平気だと思えるよ」
 気持ちを一度切り替えると、先程までの陰鬱な気持ちから前に向かう気持ちが強く生まれたような気がした。
 二人が近くの町に辿り着くその前、彼らの脳内に能天気な声が響き渡った。
『うぉーい、聞こえるかぁ』
 バースは辺りを見渡すが、その声の主は見えない。いや、肉眼で確認できるという問題ですらなかった。その声が『脳内』で響いていたからだ。
「なに……気持ち悪い。何でトラの声が頭の中で」
『ちょ、なんか酷くねぇー! つかオレよくわかんね。魔法の一種じゃねーの? だってテキトーにやったら何かできたし。……オレ、超天才かも』
 さっきまで安否を気遣われたトラからのあまりにも状態把握できていない声に、バースは怒鳴りたくなったが抑えた。今はそんなことでくだらない言い合いをしている場合ではないからだ。
 このトラの声はロアにも届いているらしく、
「トラ、アルバートはどうしてる」
 安否を気遣うように、問いかける。
『アルさんも超元気。たださっきからバース、バースって言ってて軽くウザいんですけどぉー!』
 何の問題もないねと、静かに呟くロア。しかし、無自覚とはいえ魔法を軽々使うトラをロアは心配していた。
――恐らく風魔法の一種だろうな。だがあまりにもかけ離れ過ぎている……流石は妖精ということか
 しかし露骨に反応をするわけにはいかず、話をかえるように、
「二人が無事ならよかった。それで私達はどこで君達と合流すればいい」
『んー、つか今ロア逹ってどのへん』
「君達を追って下流に向かっている最中だよ」
『そっかぁ、だったらその先って道が二つに分かれてて、その分かれるところにでっかい木があっからそこにしね? まぁ近くの町の奴等に聞けばすぐわかるって』
 この説明では何となくしかわかりようがない。だが近隣住民が知っているなら改めて聞き直してもいいだろう。
「わかったよ、とりあえずそこに向かうことにする」
 おうよと、トラは答えたかったのだが雑音混じりに声がやっと聞こえる程度になり、最終的には脳内に響いていた声はまったく聞こえなくなった。
「切れた……みたい。でも無事でよかった」
 バースが一瞬見せた安堵の表情は、大事な人が変わりなくいたことへの嬉しさであり、ロアは僅かに彼女から視線を反らす。
 自分の中で沸き上がりそうな気持ちを見ないかのように。


 トラの言う通り、町の宿主に場所を聞いてみたら笑顔でその場所までの道を教えてくれた。
「バース、すまない」
「何で謝るのさ。仕方ないだろう、部屋が一室しか空いてないんだから。それに何を今さら……ロアとの同室は慣れたよ」
 ロアの揺れる心中を知らず、バースは何もないように言ってのける。その彼女の様子にロアは溜め息をつきたくなるのと同時に、妙な思いがこみあげてくる。
 もしアルバートと同室だったら、そう言いたくなった。彼女の反応を読むなら、照れて文句の一つでも言うだろう。
 これが決定的な違いであった。彼女の中では明らかに自分とアルバートは別物であり、彼女のロアに対する信頼は絶対的で、だがそれは異性という点では好ましくない。
 ロアは小さく首を振る。ここ最近の自分はおかしくなっている、あのとき自分は自分の気持ちに対して決意を固めたつもりだった。だが今の彼を見る限りそのようには見えなかった。
「ロア……聞いてるの」
 その証拠にバースは無防備に自分を覗き込んできている。
 自分が彼女へ抱く想いを知ることなく。
 正直、いつ断ち切った想いが再び蘇ったのかロアにはわからなかった。だが自然と彼女への気持ちが現れてしまっていることに気付いてしまった。
 『彼女の笑顔を守るため』に、という考えが『自分の手で笑顔にさせたい』に変わった。
 しかし彼女にはアルバートがいて、アルバートにも彼女がいる。
 この二人の仲を裂くということは「仲間」としてできず、ロアは何度も勘違いだと自分に言い聞かせ続けていた。
「ねぇ、顔色が悪いよ。水とか何か持ってきたほうがいいよね」
 バースは立ち上がり、ロアに背を向ける。
 その時、
 ロアの腕は自然と彼女の腰に向かっていた。


 バースはこの一瞬の出来事を理解できなかった。

 自分は水を取りに立ち上がったはずだ、なのに今背中には人肌の温もりが伝わってきていた。
 後ろから抱き締められていることに気付くのに数秒。それから彼女は変に動けずにいる。
 ロアの表情も確認しようにもできず、一体この行動が本気なのか、冗談なのかバースには判断する術がない。
「……離して」
 静かに呟く、しかし返ってきたのは腕を緩めるどころか強く握り返してきたのだ。
「ロア、辛いの? 何か……あったんだよね」
 バースは初めてロアが弱さを自分に見せたと思った。普段、自分を支える立場でい続けた彼が見せた弱さ。
 そうバースは捉えた。むしろそうとらざるを得ないのだ。
 ロアは自分にとって一番の親友――時には兄のような人だった。
 だからこそ、ロアと自分には特別な関係などない。
「いいよ、このままでも」
 しかし彼女は知らない。
 後ろで彼女を抱くロアは、彼女への愛しさを抑えらず思わず手を伸ばしたこと、そして強く後悔の念にかられていることを。

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